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北京+30を迎えて—北京会議への参加は何をもたらしたのか?

-織田 由紀子(JAWW(日本女性監視機構)顧問)

 

 

1. はじめに:北京女性会議から30年

1995年9月、北京で開催された国連第4回世界女性会議から30年が経過した今年、国連をはじめとする多くの機関が「北京+30」として過去30年の成果と課題を振り返っている。国連の会議に併催された‘95NGOフォーラムを含めた北京会議には、世界から約3万人、日本からは約5千人が参加した。北九州市からは、アジア女性交流・研究フォーラム(KFAW)が組織した参加者と北九州市女性海外研修の参加者を合わせて、少なくとも53名が参加した。

 

 

このように多数の市民が参加したことは、地域や参加者にどのような影響をもたらしたのか。本稿では、KFAW参加者の語りと記録 をもとに、グローバルな潮流と地域の実践の交差の視点から、北九州市における北京会議以後のジェンダー平等に向けた取組みを振り返る。なお、お話を伺うことができた参加者は連絡可能な数名にとどまった。30年という年月の長さを思い起こさせる。お忙しいところ時間を取ってお話し下さり、また書面で所感を寄せて下さったことに感謝申し上げます。

 

 

1 アジア女性交流・研究フォーラム女性NGO北京 ’95参加団『‘95北京女性会議 北九州NGOフォーラムの記録』、1996年。 ’95北九州市女性海外研修報告書『キーワードはエンパワーメント―19人の目で見た世界』1996年。

 

 

2. ナイロビから北京へ:国連女性会議とKFAWの誕生

北九州市から北京会議に多くの女性が参加した背景には、1985年ナイロビで開かれた国連第3回世界女性会議会議(ナイロビ会議)への北九州からの参加がある。この会議に参加した20名の女性たちは多くの「目からうろこ」を経験した。なかでも、国連世界女性会議のテーマである平等・開発・平和のうち「開発」の重要性に気づいたことは、その後の北九州での活動につながるものであった。

 

 

そのナイロビでの経験は1988年の「ふるさと創生事業」を機にしたKFAWの誕生につながる。「ふるさと創生事業」は、全国の自治体による事業に1億円を交付するというもので、北九州市では、アジアと連携して女性の地位向上を推進するという、「アジア女性交流・研究フォーラム事業」が選ばれた。この事業の採択にあたっては、ナイロビ会議に参加し、世界の女性たちの活動に刺激を受けた女性たちが、活発なロビー活動を展開した。北京会議に北九州から多くの女性が参加した背後には、ナイロビ会議に参加しグローバルな動きの影響を受け、KFAWの設立に尽力した女性たちの存在があることを忘れることはできない。

 

 

3. 北京会議:参加と学び

KFAWからの参加者34名は、国際経験もあるリーダー層、地域団体で活動する実践者層、そしてジェンダー平等の実現に関心をもつ若手に大別できる。彼女たちはNGOフォーラムで「環境」と「家族」をテーマにワークショップを開催した。

 

 

「環境」ワークショップでは、ビデオを用いて1960年代の北九州の女性による環境運動「青空が欲しい」を紹介したほか、地域における持続可能な消費活動や環境教育の実践を共有し、環境課題解決における女性の役割について参加者と意見を交換した。

 

 

「家族」ワークショップでは、篠崎研究員の指導のもと、日本社会に根強い性別役割分業観を取り上げ議論した。男性は長時間の雇用労働、女性は家庭におけるケアワークを担うことで、女性の社会参加が制約され、それが日本の少子化、高齢化につながっているという構造的問題をデータとともに提示すとともに、それがアジア諸国に共通の課題であることを提起した。ワークショップの報告者の一人吉武さんは、プレゼンテーションを聞いた海外の参加者から、強い共感を示され、力づけられたと振り返っている。

 

 

参加者はNGOフォーラムで行われたさまざまな催し物に参加し、各国の市民との交流から強い刺激を受け、言語の壁や文化の違いを越えたグローバルな女性による連帯の力を実感した。なかでも、ヒラリー・クリントンさんの講演はこれを聞いた参加者に強い印象を残している。英語に堪能で、出発前には参加者に英語の授業もしていた木下さんは、It takes a villageという話だったと、その内容を昨日のことのように語っている。また一緒に参加した末吉さんも、クリントンさんを迎える期待で興奮が高まる会場の様子を生き生きと語っている。

 

 

多くの参加者が印象深い経験だったと述べているのは、世界から参集した人びととの直接的な交流であった。国際会議ならではの得難い経験であったが、英語でのコミュニケーションでは言いたいことを十分には伝えられず、歯がゆい思いをしたとの感想も少なくない。また、さまざまなテントで行われていた音楽やダンスなどのパフォーマンス、民芸品の販売などのエネルギッシュな行動力にも多くの人が感心したと述べている。会場で「Lesbians have rights!」 というバナーを掲げていたこと、女性に対する暴力に対する抗議の意味で黒色の衣服を身に着けてのスタンディングが行われていたこと、「世界を織りなす」というスローガンのもと自分たちが織った布を掲げてアジアの女性が行進していたことなど、日本では見られないアクティブなパフォーマンスに、参加者は圧倒された。

 

 

日本政府が開催した従軍慰安婦問題に関する日本政府の立場に関する説明会も、参加者に新鮮な印象を残しており、例えば大使に対し、堂々と英語で質問する海外の参加者の姿を印象深く記憶している人もいる。政府と市民社会の対話のあり方については、この例に限らず、政府間会議を傍聴していたNGOの参加者の間では新しい学びがあった。その経験は帰国後北京JACというアドボカシー活動を行うNGOの誕生につながった。北九州からもこの活動に加わった。

 

 

北京会議への参加は、参加者個人のその後の生き方にも影響を及ぼした。例えば岩坂さんは、北京会議に参加した市内のグループのネパール訪問に同行したのを機に、ネパールの山村の少女の教育支援プロジェクトを立ち上げ、多くの賛同者を得て、以後20年以上継続、最終的に60人以上の少女を支援した。これは北京会議への参加の波及効果といえる。吉武さんは当時働いていた社会福祉関係の団体に婦人部を作るなどして、北京会議で得た知見を自分の仕事に生かした。木下さんは、末吉さんと共に、国際ゾンタ・北九州ゾンタクラブの中核メンバーとして、世界の動きを地域に伝えるとともに、地域における活動の強化・拡大に貢献した。その後彼女は、国際ゾンタの役員としてグローバルな女性の運動を牽引する立場になり、北京会議や地域活動で得た知見を活かしている。

 

 

4. 地域への還流:ムーブを拠点とした活動の展開

北京会議から持ち帰った学びと熱気は、北京会議の直前に開所した北九州市男女共同参画センター“ムーブ”(以下ムーブ)を拠点に、さまざまな事業として結実、実践された。「北京行動綱領を読む会」はその一つである。「行動綱領」は、北京会議で採択された国連の文書で、女性のエンパワーメント、ジェンダー視点の主流化、リプロダクティブ・ヘルスなどの新しい概念が含まれており、まさにジェンダー平等を推進するためのアジェンダであった。読む会は、日本語訳の刊行を待てないとして英語で読み始めたもので、辞書を片手に取り組んだことを参加者の一人末吉さんは懐かしんでいる。ジェンダーという言葉の浸透、女性に対する暴力への対応、起業家支援なども、北京会議を機にムーブの事業として続けられ、地域に広まった。

 

 

北京会議以降、男女平等にむけての国の取組みは加速し、1999年には男女共同参画社会の実現を国の最重要課題と位置づけた「男女共同参画基本法」が施行された。これを受けて北九州市でも2002年に「北九州市男女共同参画社会の形成の推進に関する条例」が制定された。これに先だってムーブでは条例づくりに関する講座が開催され、講座参加者を中心に「北九州市に「男女平等推進条例」をつくる会」(つくる会)が結成され、後に「女性団体連絡会議」と共に「条例の制定を求める要望書」を提出するなど、ロビー活動を積極的に展開した。このような動きを作り出したつくる会は、北京会議の参加者より若い世代が中心になっており、北京の熱気が次の世代に伝わり、地域での実践につながっていったことを示している。

 

北京会議から5年後 2000年には、国連特別総会「女性2000年会議」がニューヨークの国連本部で開催され、北九州市および周辺地域からも多くの女性が参加した。ニューヨーク市立大学で開催されたグローバル・フェミニスト・シンポジアやジャパン・ソサエティでワークショップを実施し、ここでも北九州市の女性環境活動「青空がほしい」を紹介するなどして、北九州の女性による環境への取組を紹介した。

 

 

さらに、2001年に市内で開催された「北九州博覧祭2001」では、地域の女性たちは、市民パビリオン「ムーブ 未来館」を出展、ジェンダー平等の推進に関わる講演会やパフォーマンスなど幅広い活動を展開し、その功績によりジャパンエキスポ大賞を受賞するなどして、北九州市の事業における女性の存在感を示した。このパビリオンの成功に力を得て、市民による『北九州市女性の100年史女の軌跡北九州』の編纂事業が始まり、3年後の2005年12月地域女性史として刊行された。これは、女性の視点に立った市民による女性史として貴重なものである。

 

 

グローバルな動きに影響されて生まれたKFAWは、その後も国際的な動向を地域の文脈において理解し、地域のジェンダー平等の活動を世界に伝える活動を続けてきた。例えば、毎年開催される「アジア女性会議」のテーマを、国連の会議のテーマ、環境、人権、人口などと重ねて国際的動向を紹介し、地域の実践につなげてきた。また、設立後早い時期から、国際協力機構(JICA)のジェンダー分野の研修を実施しており、北九州地域および日本のジェンダー平等にかかわる取組みを、パートナー国からの参加者と共有している。

 

 

5. グローバルへの発信:環境運動の継承と国際ネットワークの構築

KFAWによるグローバルへの発信は、2000年に北九州市で開催された国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)による「アジア・太平洋環境大臣会議」への参加を機に、更なる拡がりをもち、環境分野の国際的ネットワークともつながった。KFAWはこの会議の併催事業として「アジア・太平洋女性環境会議」を組織し、環境と女性分野の国内外の著名なスピーカーを招き、800名の参加者からなる討議を踏まえた提言を、環境大臣会議で報告した。この女性環境会議の活動は、その後2002年にヨハネスブルクで開催された国連の「持続可能な開発に関する世界首脳会議(WSSD)への参加を通じて、女性と環境に関するグローバルな運動へと広がった。

 

 

このKFAWの環境への取組みの原点は、1960年代の「青空が欲しい」という北九州の女性による環境運動にある。当時の深刻な大気や水の汚染に対し、家族の健康への影響を懸念した女性たちは、シーツに粉塵を集めたり、風向きと子どもの喘息の発作の関係を示すデータを収集したりして、専門家の支援も受けながら、数年かけて地道な調査を積み重ね、工場の煙突から吐き出された煤塵が子どもの健康を害していることを可視化した。このような市民による調査活動と訴えの結果、ついには産官学の関係者が一緒にテーブルについて、公害問題に取り組むようになり、それが北九州市の厳しい公害防止条例の制定につながった。

 

 

特筆すべきは、この女性たちの活動の成果と映像の記録が、30年後の1990年に生まれたKFAWによって受け継がれ、次につながったことである。映像記録は「青空がほしい」としてビデオ(後にDVD)に変換され、北京会議だけでなく、環境に関する国際会議やJICAによる研修など、さまざまな機会を通して、地域の女性によるユニークな活動として紹介され、世界に共有された。KFAWはローカルな女性による環境運動として光を当て、世界に発信したのである。

 

 

6. おわりに:地域から世界へ、次の30年への展望

北九州の女性たちは、グローバルな会議で得た知見を、ムーブの事業などを通して地域に還元し、ジェンダー平等の推進に貢献してきた。KFAWはその架け橋として、国際的なテーマを地域に翻訳し、地域の声を世界に届けてきた。

 

 

北京+30の今求められているのは、グローバルな動向を地域に紹介するだけでなく、地域の実践に光を当て、それを再び世界へと発信する循環である。北九州の経験は、その可能性を示しているといえる。

 

 

【プロフィール】

織田由紀子

 

JAWW(日本女性監視機構)顧問、公益財団法人アジア女性交流・研究フォー
ラム研究員、大学教員、JICA プロジェクト専門家、NGO 役員など、多様な立場で研究・教育・開発実務・市民社会活動に従事。専門はジェンダーと持続可能な開発

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